「今週の計画立て?あ、必要ないです。先輩と一緒に立てる約束してるから。」
計画を立てようよ、そう声をかけたAの返答である。
岡本はこのときハッとした。
そう、2つの重要なことに気づいてしまったのだ。
1つは、
岡本いらんやん。
まさに岡本不要説。
今までお世話になりましたと、か細い声を詰まらせながら疲れ切った目に涙を浮かべ辞表届を差し出す岡本自身が脳裏をよぎる。
そしてもう1つは、
「俗事的」な見方の重要性だ。
「俗事的」というのは「俗人的」の対義語で、
「俗人的」というのは、行為や情報などの善悪や真偽を、行為者や情報発信者のステータスによって判断すること、平たく言えば、「『誰が』にフォーカスを当てる」ことだ。
例を挙げると、「先生が言ってるから正しい」とか「あの人だから許される」とか「テレビで言ってたから間違いない」とか。人で判断するようなことって、気づいていないだけで、実はめちゃくちゃ多いんですよね。
「俗事的」というのはその逆で、『誰が』に左右されることなく、「行為や情報そのものにフォーカスを当てる」こと。先程の例で言えば、先生だからとかあの人だからとかテレビだからとかそういうのは脇に置いて、物事それ自体を評価するということ。
中高生の世代では時として「先輩」は神聖視され、「俗人的」な評価に偏ることを考慮したうえでもなお、
Aは明らかに、「俗事的」に判断して、先輩に計画立てのサポートを依頼したのだと岡本は思っている。
おそらく、岡本の計画立ては、Aにしっくり来なかったのだろう。
(クビになりたくないので)断っておくが岡本が手を抜いたわけじゃない。Aにぴったりの方法を提供していたつもりだった。
が、それよりも、似たような境遇で、自分に近い目線で語る先輩の話に納得いくものが多かったのだと思う。
先生の言ったことが絶対だというのは非常に危険だ。
先生なんて字の通り「先に生まれた」だけの生き物で、別に偉くもなんともない。フツーの人間だ。
「先生でも間違えるんですね」なんて言われた日にはまじでヤバいと思った方がいい。
なぜなら、子どもの自ら考え選択する機会や力が、明らかに奪われているからだ。
とはいえ、情報を鵜呑みにしたり、先生や親を盲信したりすることに慣れた子どもたちに、
さあ今から「俗事的」に物事を見つめるのです!なんて言ってもなかなか難しい。
だからまずは、「先生」にまつわる固定観念を取っ払うことで、
「常識」を疑い始めるアプローチが必要なのだ。
UTUWAの先生が先生らしからぬ風貌なのはそのためである。
そうそう、鋭い方はもうお気づきだろう。
今回の岡本も、まさにこれなわけよ。
あえて愚者を演じることで、Aが「俗事的」に判断できる機会を与えたわけ!!
まさに計画通り!!計画立てだけにね!!!
hahaha!そうなんです!そういうこと!!はは!!!
ははは。
はは…。
お願いです・・・。
・・・まだ辞めたくないんです。