1
潮がかすかに香る日曜の校庭、
左の強打者が足場をかためて4回裏、ワンアウト二塁。
汗ばむ昼下がり、少年はライトから、戦況を見守る。
1ボール1ストライクの3球目、甲高い金属音、ライトへの大飛球。
少年は顔を前に残したまま打球を追いはじめる。
果たして捕れるか間に合うか―そのときだった。
気が付くと少年は仰向けに倒れていた。…息ができない。
みぞおちに鈍くも重い感触、苦痛で閉じかけた視線の先、
くすんだ平行線が、雲一つない空を真っ二つに切り裂いていた。
2
鉄棒に思いっきり突っ込んで腹を強打、その場に倒れ込む。
少年野球をやってた頃の岡本の苦い思い出だ。
試合は学校の校庭でやることも多く、運悪くライトの後方には鉄棒ゾーン。
後ろに鉄棒があることなんて知ってたのに、
打球を追ってる瞬間にはすっかり忘れてた。…なんとも恥ずかしい思い出だ。
そのときの天気も、何回の出来事かもほんとは覚えてないんだけど、
腹の痛みだけは覚えている。
想像してほしい、いきなりみぞおちを思いっきり殴られるのを。
3
ところで、岡本がみぞおちを痛打する痛みであれ、
麻衣子さんが注射器で刺される痛みであれ、
他者の痛みを共感できるのは、
その痛みが経験済みで、それを自分に置き換えて想像している場合に限る。
ピストルで撃たれた腹部が血まみれ、なんて言われても
少なくとも岡本はピンとこない、撃たれたことがないから。
でも、自転車で転んで擦りむいた膝が血だらけ、なんて言われたら
既知の痛みに思わず顔をしかめてしまうんじゃないか。
しかも、そのとき想像しているのは相手じゃなくて、
血だらけになって痛む自分の膝だろう。
相手がどれほどの痛みを感じているかなんて、
自分に置き換えない限り、ほんとのところは分からないのだ。
4
周りの目がこわい。
そんな風に他者の目を気にして生きる人は多い。
そんなもん気にしてんじゃねぇよ!てめぇの人生だろう!
って言いたいところだけど、岡本もすごく気にしてしまう。
でも、明らかに相手が非難したり見下したりするのが感じ取れる場合を除いて、
相手が自分に対して何を思っているかなんてわからない。
それにも関わらず、
相手が自分のことをバカにしているとか、敵意を持ってるんじゃないかとか、
そんな風に想像してしまうのはなぜだろう?
過去の経験からそのように考えてしまうことも考えられるが、
もしかすると、件(くだん)の痛みのように、
自分が他者を見る、あるいは、自分が自分自身を見るのと同じように、
相手も自分自身を見ていると錯覚するところに原因があるかもしれない。
5
相手を見た目だけで判断する、肩書きだけで評価する。
そういう人が多い。岡本も気を抜いたらすぐそうなる。
そうやって相手を見ているからこそ、
相手もそのように自分を見てくるものと思いこんでいないか。
あるいは、これは経験則だけど、
自分に自信を持てない人は、常に自分を否定することが多い。
事あるごとに自分自身を責めたり、貶めたりして、暗い気持ちになる。
自分がそんな風に自分自身を見ているものだから、
相手もそんな風に自分自身を見てくるものと思いこんでいないか。
6
他者の目を気にしてしまう。
気にしちゃだめだ、気にしなくてもいいんだよ、
そうやって自分を励ましても効果は薄いだろう。
他者の目を気にするのなら、
まずは自分の目を気にしてみよう。
この逆説的なアドバイス、岡本の最近のお気に入りだ。
7
両軍ベンチから飛び出す監督やコーチ。
ぐったりした少年を抱きかかえる。
「病院まで…」「救急車を…」遠くに感じる大人たちの焦り。
そうか。僕はこのまま死んでしまうのかもしれない。
呼吸ができない苦しさ、周りの憔悴から、
少年がはじめて死を意識した瞬間だった。
そのときだった。
「とりあえず麦茶を…」
いや待て。
待ってくれ。
この緊迫した場面、ましてや死の淵に立たんとする人間に、
茶を飲ませようとする人間が存在する現実を前に、
少年はさらに顔をゆがめる。
少年の思いとは裏腹に、そのゆがんだ顔がなぜか麦茶案を加速させた。
無理やり上体をおこされた少年の口にお茶を含ませる。
薄らぐ意識のなか、少年はそれを飲み込む、
愚行を犯す大人への疑い、いやむしろ恐怖を感じながら。
8
お茶飲んだらマジで直った。笑
その後自分の足でベンチに戻る岡本に
まさに源平合戦のように両軍から拍手が巻き起こった。
少年岡本はそれに両手を突きあげて応えたのでした。
しかしいま改めて思い返せば、
一人で鉄棒に突っ込み、倒れ、起き上がっただけなのだ。
もちろんボールは捕れてない。
そんなダサい展開で、よくもヒーローのように振舞ったな…。
9
我ながら自分がこわい。