みなさん、ご機嫌よう。
長い目で見る男、安部です。
さて、今週は教育、特に数学について最近思ってることを語っていこうかと思います。
なぜ数学を学ぶのか。
この問いの答えは人によって様々だと思う。
ある人は受験に必要だから(日本の教育システムだとある意味正しい)といい、
ある人は今は分からなくても大人になればわかるよ(これはマジでゴミ)という。
僕も最近までは数学は論理的思考力を養う教科だと思っていた。
問に対して、いかに正解に辿り着く筋道を立てていくのか。
問題解決能力の養成と言い換えてもいいかもしれない。
しかしその答えにもどこか腑に落ちないというか心からそう信じられないというか…
モヤモヤしたものをずっと抱えていた。
数学の問に答えらえる≒論理的思考力があるのだろうか。
僕の経験上、センター試験(今後は共通テスト)レベルまで
(学校の定期テストは言わずもがな)はパターンで瞬殺できる。
筋道を立てるまでもなく、最後の答えまで一瞬で見える問題だ。
こんなことを言うと、それは問題が簡単だからで
難関大レベルになれば論理的思考力を問われるんだって反論する人もいるだろうけど…
だとしたら、難関大を目指さない子は数学を通して何を学ぶの?
やっぱり受験のための道具以上の価値はないの?
数学では論理的思考力は身につかないからと言って現代文で身につけろと投げ出すの?
僕はそんな純粋で素朴で当たり前な問いに対して、
十分に納得できる解答を持ち合わせていなかった。
でも、ようやく最近少しずつだけど光が見えてきた気がする。
そのヒントを与えてくれたのは他でもない生徒たちだ。
いまオンライン指導で僕は「黄チャート選手権」なるものを開催している。
これ自体はただ黄チャートという問題集から抜粋してきた問題に対して、
早押しクイズ&対話形式で解法を言語化してもらうというものなんだけれども、
みんな黄チャンピオン(優勝者に与えられるそこはかとなくダサい称号)を目指して頑張ってくれている。
多くの子はそれぞれの問いに対して解法をスラスラ言えるようになってきた。
これは、こと受験においては非常に喜ばしい(?)ことなのだが、
じゃあそもそもなんでその解法を選んだの?
もっと具体的に言うとなぜ場合分けが必要だと思ったの?
という問いに対して答えられる子はほとんどいないのだ。
解法はスラスラ言える、つまり問題は解ける。
でもなんでその解法が正しいのかは言えない、つまり問題の本質は捉えられていない。
これだ。
これが僕の抱えていた矛盾なんだと、そう思った。
ただ問題が解けるようになったところで
その子は何も身につけてはいないんだ(正確には入試問題は解けるようになっている)。
いまの教育はすべからくたった1つの正解を求めさせる。
でもそこに意味はあるんだろうか。
テストで〇をもらうことにどれだけの価値があるのだろうか。
たとえ×だったとしても、そこにある問題の本質を捉えて
その解決策を持ち合わせていないことに気づける方がはるかに重要なのではないか。
いまはあらゆるモノが足りず、問題が山積みされ、解決策が乏しかった30年前ではない。
モノが飽和し、目に見える問題はほぼ解決され(SDGsのような目標はあるものの)、
インターネットでつながったこの社会では解決策にあふれている。
そんな時代において求められる資質はきっと問題解決能力ではなく、問題発見能力なんだろう。
そう考えたとき、数学を通して伝えるべくは正解までの筋道の立て方ではない。
そこにある問題の核を捉える、本質を見抜く力だ。
生徒がこれからの時代で幸せに生きていけるように。
これからも自らの思考をどんどんアップデートして還元していきたい。
はい!ということで今週は数学の意義について語ってみましたが、学校の先生とかはどう考えてるんだろう笑
課題やテストのあり方、評価の仕方や指導の仕方そのものから変革しなきゃいけないと思うんだけどなぁ…
まぁ一方で入試制度がある以上、そこに求められる能力も身につけなきゃ大学に入れないというジレンマもあるんですけどね。
難しいもんです。
それではまた来週お会いしましょう!