こんにちは、長坂です。
先日大学時代のゼミの教授から、アメリカはオレゴン州にあるポートランドの
桜の写真が送られてきました。
卒業して早二年が経ちますが、
こうしてお世話になった先生と今でも繋がれるのはすごくありがたいというか、
幸せなことだと改めて実感したりするものです。
僕は、大学では法学に進み、刑事法を専攻しました。
今思えば、民事法や会社法の方が、
企業に勤める上では、直接的に影響あったなと思いますが、
個人的にはすごく面白い、興味深い学問(恐らくどの学問もだが)だったと思います。
卒業論文は、教授に止められながらも
「自動運転車(autonomous vehicle)が交通事故を起こした場合の刑法学的観点及び有用性」というのを
泣きそうになりながら書き上げました。
当時からAIに興味があり、「こいつら事故起こしたらどうなるん?」ていうのに
すごく興味があったんですね。(ここだけ切り取ったらサイコパスみたいですね。笑)
ただ、当時は、アシスト機能こそあったものの、日本では自動運転車が存在せず、
また、刑法学からのアプローチを施す文献がほとんど無かったのです。(その点、民事法は進んでいました。)
AIって夢がある一方で、不安になる側面もあるんですよ。
自動運転の場合だと、「責任」の部分とか。
自動運転させてて、事故っちゃった時は誰が悪いの?っていう。
相手は同じ車なのか、人なのか。回避できたのか、そうじゃないのか。機体を作った製造元が悪いの?プログラマーの責任?
これがなければ、感情のやりどころもないし、誰も救われないんじゃないのか?とか。
すごいネガティブな発想しか出てこない(笑)
けど命に関わるようなことだから、慎重に進めなきゃいけない。
AIの倫理・道徳的判断も大きな課題でした。
1人を犠牲に10人を助けるのか、その1人が自分の子供だったら…等々。
そういった簡単に判断することのできない課題がまだまだ山積みなのです。
「AIに仕事が取って代わられる」なんて言われる昨今ですが、
人が考える事をやめちゃったら、
そういう微妙な、議論の余地のある部分が
機械的になっていって、より冷たくなってしまうのでしょう。合理的な部分もあるとは思いますが。
まぁそんなこと言っていると、
「人間らしさってなんだ?」「人間の定義は?」みたいなすごい哲学チックな話になって
収集つかなくなってしまうのでやめておきましょう。(←考えるのやめるなと言っておきながら。)
話があっちこっち行っちゃいますが、
ずっと思っていて、大事にしたい、してほしいのは
「当たり前」だったり、「常識じゃん」と思われたりしていることを、
疑うこと。有り難さを知ること。
既にあるもの、提示されているものを受け取ることは
とても簡単で、楽かもしれない。
でも自分たちはロボットじゃ無い。
ソレは自分たちにとって、どんなものなのか、本当にソレでいいのか、
ソレが無くなったらどうするのか。
365日24時間常にそんなことを考えて生きる必要はないとは思うけど、
自分が何か決断したり、選択に迫られた時は
立ち止まって考えて見てほしいなと思います。
刺激や情報に溢れている現代だからこそ。