世の中いろいろと複雑だし、みんな何かと忙しいから、
当初の目的を忘れがちです。
そして、いつのまにか手段が自己目的化したり、目的とは全く関係ない言動を取ったりしてしまいます。
例えば、
試験に合格するための勉強が、いつのまにか勉強すること自体が目的になってしまう。
ただただ勉強が好きで、勉強したいから勉強する、そんな知的好奇心旺盛な態度であれば素敵ですが、
そうではなく、机に向かって長い時間勉強してればOKで、その質を一切問わない。
ただ問題集を解いてるだけ、まる付けも復習もしない、そんな勉強をしてしまう。
親や先生が、子どもの成長のために働きかけるはずが、いつのまにか怒ること自体が目的になってしまう。
その結果、いつのまにか親や先生に怒られないこと自体が目的になってしまう。
成績不振やなにやらでふてくされたり、キレたり落ち込んだりするのも、目的からしたら意味不明ですよね。
子どもたちの主体的な学びを実現するためのアクティブラーニングが、いつのまにかアクティブラーニングすること自体が目的になってしまう。
アクティブラーニングを用いていかに子供たちに「学ばせるか」なんておかしなことを言ってしまう人もいる。
学校や会社、社会の制度やルールなんかでもそうです。
もともとは、何かを防いだり守ったり円滑にしたりするための制度やルールが、それらを守ること自体が目的になってしまう。
恥ずかしながら岡本もよくこの事態に陥って、というかこの事態を自分で招いてしまいます。
だからこそ、「そもそも…」という言葉を大切にしている。
「そもそもなんでこれをやってるんだろう?」
「そもそもこういうルールを作ったのはなんでだっけ?」
「そもそもこんな気持ちになってるのはなぜだろう?」
そうやって、常日頃、意識的に、自分の言動の目的を考えるようにしています。
時間は有限です。
目的や目標からブレない生き方が理想ですが、
それが難しい時は、この「そもそも」で随時軌道修正すると良いかもしれません。
「そもそもなんで海が好きなんだろう?」
「そもそもなんでこの歌が好きなんだ?」
「そもそもなんでバイトしちゃいけないんだ?」
「そもそもなんで学校行ってるんだっけ?」
「そもそもなんでUTUWAに通ってるんだ?」
…
「そもそもなんで生きてるんだろう?」
…
でも、そもそも論の多用のせいで、「そもそも」という意味が分からなくなる時があります、
そんな時は、「そもそも『そもそも』ってどういう意味だっけ?」と考えるようにしています。
でも、そうしてるうちにそもそも、「そもそも『そもそも』ってどういう意味」って何で問うているんだろう?
っていう事態になりません、嘘です。