ある日。ある生徒と生態系の循環について語り合っていた。
生き物がうまれ、食べ、排泄し、死ぬ、つまり生を送る過程で、たくさんの生き物と絶えず関わり合っている。
なんていうか…みんなつながってるんですね
生命はみな、何かしら繋がっとんねん。その見えないつながりを感じるんや
私の身体も他の生命からできてるって言えますもんね。
岡本が子どもたちに全力で気持ち悪がられようと、
世界は直接的にも間接的にも、時間的にも空間的にも、
生きとし生けるものは、生命のないものとさえ、つながっています。
つながりは、良いものだとか悪いものだとか、そういう判断をくだす次元にはありません。
宇宙が誕生した瞬間からの、根源的な真実、とでも言うのでしょうか。
どれだけその鎖を断ち切ろうとしても、
たとえ死してのちも、森羅万象を結うつながりからは当然逃れることはできません。
つながりは、「自」と「他」の境界を不透明にします。
自分は自分であって自分ではない、
他者は他者でありつつ、自分でもある。
その意味で確固たる自己は存在しません。
従って、自分の生は、
自分だけの生ではなく、
自分の生なのに、「自分たちの生」としてそこに現れます。
他者の生もまた、「私たちの生」として捉えられるのです。
唯我論的な自己存在への責任感、
それに伴う嫌悪感、罪悪感は、ある意味で傲慢です。
全体の一部でしかないちっぽけな人間存在である私たち一人ひとりに、
それらを背負う力も術もありません。
そう、はなからあなただけで解決できるような問題であり得ないのです。
大切なことは、
自分の責任ではなく自分たちの責任であること、
他者の貢献もまた私たちの貢献であることを、
大きなスケールの中での微かな私として、
その一方で全体を構成する歴とした一要素として、
目を凝らして、でも肩の力を抜いて見ようとすることです。
一人にはなれませんし、
一人ではありませんし、
一人にはしません。
私の大切なある方に、この思いが届きますように。