先日のこと。
数年前の教え子から連絡があって、就活(就職活動。希望の会社に入るために準備したり面接を受けたりする。)相談に乗った。
素敵なところがいっぱいあるのに、それをうまく表現できていないようだったから、それはかなりもったいないぞと。
彼女の真剣さがこちらにもビンビンと伝わってきたので、岡本も可能な限り丁寧に、熱心にアドバイスを送った。
結果、どうだったか。
実を言うと、彼女の就職活動がどうなったのか、岡本は知らない。
というのも、彼女の方から、「やはり自分で色々と考えてみたい」との連絡を賜り、
岡本との話し合いはわずか2、3回で終わってしまったのだった。
岡本が彼女の成功を願ってかけたアドバイスの数々は、
彼女の視界をクリアにするどころか、彼女自身を混沌の中に引きずり込んでしまったようだ。
今思えば、面接を間近に控えたタイミングで助言すべき内容ではなかったんだと思う。
無事に就職活動を終えてくれているといいのだけど・・・今も本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
思えば、
自分が良かれと思ってやったことが、かえって相手を困らせたり、不快にさせたりすることって、実に多い。
一般的に推奨されていること、例えば電車でお年寄りや身体の不自由な方に席を譲ることでさえ、相手によってはありがた迷惑だったりする。
席を譲ろうとした老人に、「いえ、結構です。私はまだ若いので。」とつっけんどんに言われたって、いや、そんなんこっちは分からんがな!だ。
でも、相手が明確な意思表示してくれるのならまだマシな方かもしれない。
毎年誕生日にプレゼントしていたケーキが、実はきらいでした、気まずくてずっと言えませんでしたって、うそやん、毎回もらうときニコニコしてたやん!だ。
そう、相手のことなんて分からないのだ。
自分が相手のためにした行いやかけた言葉が、本当に相手のためになっているとは限らない、
ただ自分が相手に貢献したなぁと勝手に妄想しているだけ、つまり、自己満足でしかないってことだ。
どれだけ相手のことを強く思っての言動であっても、それが相手のためになるなんて保証はこれっぽっちもない。
僕らはそれを自覚することから始めるべきだと思う。
教育をやってると特に、子どもへの「押し付け」になりがちなので、
相手にとっても自分にとっても不幸な事態にならないように気を遣っているつもりだ。
①決定権は相手にあることを忘れない
②本音を言いやすい場づくり
③「その他」を明示する
具体的には以上の3つを岡本は意識するようにした。
例えば、子どもたちと勉強法について話し合うとする。
一般的に最も効率的で効果の高い勉強法が、全員にフィットするわけではないので、こちらは勉強法を「提案する」だけで、子どもたち自身にどうやって勉強するか、その最終決定を下してもらう。
その「提案」が高圧的な「命令」にならないように、普段からのコミュニケーションで対等で信頼しあえる関係づくりを心がける。
そして、こちらのアドバイスを盲信しないように、常に他の選択肢、つまり「その他」があることをはっきりと伝える。
そしたら少しは、子どもたちの本音に近い選択肢を、子どもたち自身が選んでくれるようになるんじゃないかなって。
「先生」と呼ぶだけで、なんかこの人すごそう、この人に従っておけばええかって、依存の構図も生まれやすいので、
そういう意味でもやはり教育をやってる人間は気をつけたほうがいいと思う。
岡本的には、「すげー」って言われる先生よりも、「アホやな」って言われる先生の方が先生ランクは高いと思うから、
なかなか難しいけど、それを目指したい(、っていうか先生って呼ばれるのが好きじゃないから皆さん岡本を呼ぶ際は先生をつけないでください)。
結婚式の引き出物が選べるカタログになっているように(って子どもたちは分からんか…)、
こちらができるのは選択肢の提示くらいなもんだよ、決定を下すのはあくまでもあなたですくらいのスタンスで、相手と向き合いたいですね。
「私はあなたに席を譲ることもできますし、そのまま座っていることもできます。もしかすると他の選択肢、そうですね、私の膝の上にお座りになるとか、そんなことも考えられます。さて、どうしますか?」
って電車で言われたらめっちゃ困るやろな。笑
余談ですが、少し前から「ZOOM保護者会」と称して、岡本と数名のお母様方で月1回、1時間程度ゆるーくお話してます。
子育てのこと、受験のこと、安売りのこと(!?)。親同士でしか分かり合えないこともたくさんあると思うので、興味ある方は岡本までお声がけください。
フリーテーマでその場の雰囲気に任せて、まったりお話しましょう。