どうもご無沙汰しております、岡本です。
ブログの更新が止まったのはお前のせいだ、いや俺は悪くないと、先生たちの間で醜い犯人探しが起こっていますが、あきれて言葉も出ません。
この際だからはっきり言いましょう。
犯人はわたしです。
いつの間にか夏休みも終わりですね、と言いつつ、9月からしばらくオンラインの学校が多いみたいで、夏休みがまだまだ続きそうな錯覚を覚えてしまいそうです、ちなみに岡本はそんな感じです。
ただ、9月1日にはしっかり夏休みの宿題は回収するようで…学生諸君、本当にご苦労様です。
もう半月ほど前の話ですが、UTUWAに通うある中学生も、夏休みの宿題をサクサクこなしていました。割と面倒くさそうな宿題だったのですが、そんなのモノともせず、非常にスムーズに進めていました、答えを丸写ししながら。
ちなみに岡本は答えを丸写ししていても注意などしません。
なぜなら、子どもたちのその行動は非常に合理的だからです。
彼(女)らの目的は「できない問題をできるようにすること」でも「テストでいい点を取ること」でもなく、ただ「宿題を終わらせること」です。その目的を達成するために最も効率的な手段は「答えを見ること」でしょう。いやいやながら、ダラダラと、ときにボーッと時間を浪費するより、よっぽど健全です。
「は?そんなの許せるかい!!」
そうやって子どもたちに叱ったり、無理やり自力でやらせたりする先生や親御さんも、なかにはいらっしゃるでしょう。おそらく、子どもたちの将来のためになんとかしてあげたい、その思いの表れでしょう。その気持ち自体はとても理解できます。
しかし、強制や厳しい指導は、合目的的な行動(目的を果たすためにふさわしい行動)ではありません。むしろ逆効果です。
もう一度子どもたちのそもそもの目的を考えてみて下さい。
彼(女)らの目的は「宿題を終わらせること」です。そしてそれを達成するために合理的な方法をきちんと選択できているのです。
目的達成のための適切な行動を取っているのに、周囲から横やりを入れられたら、どんな気持ちになるでしょうか?
あなたが「マラソンを完走すること」を目的に、ゴールまで一歩一歩進んでいるときに、周りから急に妨害にあう。
「なんだそのフォームは!?美しくなさすぎ!上下に頭を動かしすぎだから、そんなんじゃダメだって!」
「マラソンなんかやめなさい。今すぐ短距離走に切り替えて。はいじゃあ今から100m走でーす。」
極端な例え話かもしれないけれど、子どもたちはそれくらいに理不尽に感じているのかもしれません。
子どもたちの将来について考えるなら、目の前の行動を制限したり束縛したりするのではなく、彼(女)らがなぜその目的を選択するに至ったのか、そこと向き合うのがベターではないでしょうか。
「宿題を終わらせること」を目的とするに至った子どもたちの思い。
多くの場合、彼(女)らは、苦手なせいで自信を失っていたり、束縛や強制によって主体性を失っていたりします。
子どもたちの本当の気持ちと向き合う。
そのためには子どもたちが抱える本音を打ち明けてくれるような関係が築かれていなくてはなりません。
宿題を丸写ししている子どもを叱りつける大人に、彼(女)らは心を開いてくれるでしょうか?
実は、先生や大人が、叱ったり強制させたりすることもある意味で合目的的なんですよね。
「子どもに余計なことをさせず、静かに机に向かわせること」。
遊び呆けてへらへらしている、テレビやゲームにかじりついている、そんな子の姿が見なくて済む。
「子の将来」ではなく、「大人自身の精神衛生」的な目的は達成できているわけですから。