先日、「障子(しょうじ)ってなんですか?」とRから質問された。
「和室にあるやつやん、戸でさ、和紙を貼っててすぐに破れちゃうやん。」
岡本の完ぺきな解説に対して首をかしげるR。ウソやん。
すると横で勉強していた同学年のKが、
「おばあちゃん家にあるやつ!ブスブス指でさすやつ!」
そんな説明で誰が納得すんねん、といやらしい笑みを浮かべようとしたそのとき、
「あぁ、わかった!ありがとうKちゃん!」
ウソやん。
おばあちゃん家にあるかまず分からんやん。
ブスブス指でさすのが目的ちゃうやん、あれ。
いや、そもそも障子の説明いっさいしてないやん。
話が分かりやすいかどうか、
それを決めるのは、話す側ではありません。聞く側です。
教える側の経験や力量は、分かりやすく説明する可能性を上げこそすれ、
必ずしもそれらが最適な説明を用意するとは限りません。
むしろ、それらに縛られるせいで、相手をありのまま見ること、
つまり、相手がいまどこに問題を抱えていて何を求めているのかを、理解しようとすることができなくなってしまう恐れもあります。
ですから、教師や大人よりも、同じくらいの目線の子どもの方が分かりやすい、
そんなケースはたくさんあるでしょう。
「何度言えば分かるの?」
「なんで分からないの?」
はたして、教わる側がいつも悪いのでしょうか?