「先生ね、なんでもかんでも『お子さん次第です』って言うけどね、
この子は私がいないと何もできないんですよ。
本人に任せてばかりいたら、この子はどうなると思いますか。
何にもしませんよ。それで進学できなかったらどうするんです?
先生が責任取ってくれるんですか?違いますよね?
私が責任を負ってるんですよ。だから私が何とかしないといけないんです。」
子の行く先に「崖」があるのに、
知らんぷりして放置する親や教育者はいない。
では、それが「崖」ではなく、
「段差」だったら―。
落っこちてケガをすると分かっていながら放置するのか、
それとも大切な子どもが傷つく姿を見ないで済むように手を取るのか。
どこまで子ども本人に任せるのか。
その線引きにこそ子育てや教育の難しさがあると思う。
僕もいまだに、その見極めに悩む場面が多い。
でも1つ、間違いなく言えることがある。
それは、いずれは子どもが自分の力で、
「崖」や「段差」が待ち受けるであろう道を歩まなくてはならないということ。
だから僕たちの仕事は、
「崖」からの転落を未然に防ぐのはもちろん、
「崖」や「段差」を察知する方法自体、それらを回避する術自体を、
今のうちに子どもに教えることなのだと思う。
そのためにはやはり、
子どもには「段差」につまずいて転ぶ経験がどうしても必要だ。
いくら「これが『段差』というもので、こういう危険性があって…」
と説明したところで、
それがどんなものなのか、どれほどの痛みを伴うかは
子どもが実際に体験するほかない。
そして、その失敗体験から、
できる限り多くの学びを得、これからの歩みにいかす方法を教える。
また、その失敗体験による不利益が、
自らの言動によって招かれたものであることを自覚させる。
そうすることではじめて、
子どもは自らの進路に責任を負って、自らの足で歩き始めるのだろう。
「私がいないと何もできない」という考えは
時として非常に危険だと思う。
もしかすると子どもは、
「私がいないと何もできない」のではなくて、
「私がいるから何もできない」のかもしれない。
親に責任があるとすれば、
それは、
子どもが自身の幸せを実現するためのサポートをすることにあって、
いつまでも子どもに寄り添って伴走することではないのだ。
言い換えれば、子どもを信じきる責任、
どれだけ転んで失敗しても変わらぬ愛で包む責任と言えるのかもしれない。
そのためにも、
子どもの眼前にある「段差」1つ1つに気をもむのではなく、
つまずきから立ち上がった子どもの成長を楽しみにしながら、
じっと見守ることのできる長期的な視点が、
子育てや教育には必要なんだと思う。