世に名を馳せる人のなかに、
幼少期など、過去のある一定期間、壮絶な生き方をしてきた人が少なからずいる。
早くに両親を亡くしたり、とてつもなく貧乏だったり…。
フツーに恵まれた家庭でノウノウと生きてきた人間としては、
不謹慎であるのは百も承知で、
波瀾万丈の人生に心のどこかで憧れる部分がある。
でもその憧れの正体は、
名を馳せることをどこかで夢見ながら、
でもそれができない自分自身への正当化に由来するのかもしれない―
そんな葛藤のなか、いつも思い出す漫画がある。
具体的な内容については一切説明しないが、
乱暴にまとめると、
「できない」のと「(意図して)しない」のでは、
「しない」方がすげーんだぜと。
例えば。
岡本はかれこれ「テレビなし生活」を15年ほど続けているが、
そのきっかけは、
ついつい見てしまうテレビへの依存に問題意識を感じたことだった。
それでテレビを見ることが「できない」状態に自分をおいたのだが、
そもそも岡本に強い意志があれば、
テレビが目の前にあれど、見ることを「しない」選択ができたはずだ。
つまり、恵まれた環境のもとに自分を置きつつも、
強い意志さえあれば、ストイックな生き方はできるんだぜと、
言い訳する自身への戒めとして想起される『あしたのジョー』であった…
のだが。
それにしても、
「(意図して)しない」ことがなんて難しい世の中なんだろうと、
身体の一部と化したスマホを四六時中愛でる子どもたちをみて思う。
もはや子どもたちに、
「しない」ことを課すこと自体が無謀なのではないかとさえ思うほどに、
この世界は誘惑で満ちている。
しかし、そんな困難な状況下でさえ、
メリハリのついた生き方で、
見事に誘惑と付き合うことができる子どもがいる。
誘惑の罠から抜け出せない子ども、
「しない」を選択できる子ども。
いったい、両者の差はどこから生まれるのか。
その要因はたくさんあるだろうけど、
「約束を果たした回数」、その差も大きい気がする。
「約束の重み」の感じ方の差とも言えるだろうか。
『依存学ことはじめ』の第二章で、谷岡一郎氏はこう語っている。
「子どもを育てるのに一番やってはいけないことは、(中略)、甘いのと厳しいのを代わりばんこにやった家庭なんです。
あるとき同じ行為をやって褒められたのに、次の日はお父ちゃんがむしゃくしゃして殴られたと。同じことをしているのに、褒められたり、怒られたりと、ころころ変わっていった家庭、つまり首尾一貫しない教育をした家庭の子どもには規範が育ちません。ここまでやってもいい、ここからやっては駄目だという境界。それが規範と呼ばれていますけれども、やっていいことと悪いことの境界が育たなければ駄目なわけです。」
(『依存と集中力、そして楽しい人生 -達人たちは皆、何かに「はまって」いた』四.子どもを育てる上で一番やってはいけないこと)
そこに科学的な根拠は示されていないものの、経験的に納得させられるものがある。
自分との約束、周りとの約束を、
「まあいいか」、「今回は仕方ない」と平気で破ったり、
約束の内容を勝手に変えてしまったり。
そういう子は、強い意志力を持ち合わせていない。
約束は果たされなくてもよい、ルールは途中で変えてもよい、
子どもがそのように思うに至った原因は、
もしかしたら大人の側にあるのかもしれない。
ゲームは1時間まで、
そう決められていたのに、親の都合で、
なぜか2時間以上やっても咎められないことがある。
なるほど、ゲーム時間は別に守らなくてもよいのか。
宿題忘れは居残りです、
そう決められていたのに、先生の都合で、
なぜか宿題を忘れても居残りを免れることがある。
なるほど、宿題を忘れても許してくれるのね。
大人が首尾一貫した規範を放棄することが、
子どものルールや約束の軽視につながる恐れがある。
先ほど、ある生徒が帰宅した。22時過ぎか。
今日UTUWAに来たのが10時頃だから、10時間以上勉強して帰った。
中学受験をするわけでもない小学生が、である。
1週間前、岡本と一緒に決めたノルマの期限が今日。
彼の勉強のペースから、ノルマを達成できないことはハナから分かっていた。
おそらく本人も分かっていたのだろう、
分かったうえで、まあなんとかなるかと。
もともと12時頃に帰宅予定だったから、
まあプラス1時間も居残ればそのうち先生も許してくれるだろうと。
彼の目論見は外れた。
そして、
弱音を吐こうが、何をしようが、
この約束が一切揺らぐことがないことを悟ったとき、
彼はそれ以上何を言うでもなく、黙々と手を動かし始めた。
そのときはじめて、
自分自身の甘さと、約束の重みを自覚したのかもしれない。
約束の重みを実感してもらうこと。
そして自分を律する意志の力を養うこと。
これも僕たちの大切な仕事なんだと思う。
おかげで岡本の休み時間はなくなったが、
この一件で彼が大変重要なことに気づいてくれたことを思えば
そんなもの、どうってことはない。