岡本が何年も前から足しげく通う喫茶店がある。
美味しい珈琲、細部の装飾にまでこだわった素敵で居心地のよい空間…。
それも確かに魅力の1つではあるが、
岡本は他の常連さんたち同様、そこのマスターに会いたいがために、
多いときは週6日、カウンターに腰かけていた。
人間としても経営者としても非常に優れていらっしゃって、
日常のこと、人付き合いのこと、仕事のこと、経営のこと、人生のこと…。
時間があれば隣に来られて、ときには店を閉めてからも時間をご一緒して、
たくさんの気づきやアドバイスを岡本に与えてくれた。
「よせやい、俺なんか目指してもしょうがないだろ」
岡本が師匠と呼ぶたびにそう返すマスターの笑顔は本当に素敵で…
岡本もいつかあんな風に笑えるようになるのだろうか、
それにはどれほどの辛さや悲しみを背負えばいいのだろうか。
触れるたびにいつも岡本を魅了し悩ませたその笑顔を、
もう見ることができないなんて。
昨日、師匠の訃報を聞いた。亡くなったのは6月13日だそう。
5月末から突然体調を崩し緊急入院、そのまま帰らぬ人となった。
「マスター、最近お見かけしませんけど、大丈夫ですか?」
少し前から、咳が激しくなっていたので心配はしていたけれど、
顔なじみの店員さんからの予想できない返答にたじろいだ。
お客さんには入院していることも知らせるな。
葬儀は家族だけでおこなう。
死んでも何事もなかったように、いつも通り店を営業しなさい。
お客さんや従業員と家族のように付き合っていたからこその
紛れもないマスターのご意向―、
それを伝え聞くうち岡本は涙を抑えることができなかった。
人前で涙を流すのはいつぶりだったろう。
人は悲しみすらも風化させてしまうので、
マスターから教わったそのすべてを、忘れないうちに記録しようと思うのだが、
今もなお、昨日の話をうまく咀嚼できないでいるせいで
今日はこれ以上、文字を運ぶことができない。